ウェッジウッド・オズボーン 20cmサラダボウル 英国製

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商品情報

サイズ:直径20cm
素材:陶磁器
※モニターの発色の具合によって実際のものと色が異なる場合があります。

オズボーン・ハウス は、イギリス・ワイト島にあるかつてのイギリス王室の離宮。
1845年から1851年の間に、イギリス女王ヴィクトリア(1876年には「インド女帝」に即位)と王配アルバートのために建てられた。
設計はアルバート公自身がした。建築家は、バッキンガム宮殿のメイン・ファサードを建てたトーマス・キュビットである。

オズボーン・ハウスが支えた悲嘆の日々
61年はヴィクトリア女王の生涯で最も悲劇的な年となった。
3月に母、ケント公夫人が死去。追い討ちをかけるように、クリスマスが迫る12月14日には、アルバート公が腸チフスに冒され急逝する。
女王は公務を行うはずのウィンザー城からすぐさま離れ、オズボーン・ハウスやバルモラル城で、黒いドレスを着込み、隠遁生活を送るようになる。
公務を遠ざけ、国民の前から姿を消した女王は、2年、3年…と、喪に服し続け、立ち直る兆候をまったく見せなかった。
そんな女王の様子に議会や大衆は少しずつ苛立ちを募らせていく。
しかしながら、アルバート公の死を悼む気持ちを抑えつつ、君主としての義務を果たすなど、女王には到底できないことだったのだろう。

やがて、女王の悲しみは献身的な侍従や身内によって、徐々に和らいでいく。
とりわけオズボーン・ハウスでヴィクトリア女王の馬の世話係を務めたジョン・ブラウンは、彼女の長い人生の中でも異彩を放つ存在だった。
ブラウンは、アルバート公が信頼していたバルモラル城付きの侍従だったが、公の死後、女王のためにオズボーン・ハウスに派遣されてくる。
他の使用人が遠慮がちに、女王と最小限の言葉を交わすに留まるのとは対照的に、ブラウンは、ストレートな物言いで積極的に女王に話しかけた。
ブラウンの無骨ながらも純粋な忠誠心は、女王の固く閉ざされた心を溶かし、女王はアルバート公在りし日のように、ブラウンを引き連れ乗馬に出かけるまでになっていく。そんな2人の絆は、恰好の王室ゴシップとなっていくが、それでもブラウンは女王にとって大切な友人であり続けた。
また、ヴィクトリア女王と末娘のベアトリス王女とは、5人いる娘たちの中でも特に強い絆で結ばれていた。ベアトリス王女は、85年にドイツのバッテンベルク家のヘンリーと結婚するが、女王の強い説得により、夫を英国に住まわせる形で、結婚後も変わりなく女王の側で暮らした。
ベアトリス王女一家は女王から、オズボーン・ハウスの新館、ダーバー・ウィングの1階部分をあてがわれ、王女は、女王の最も信頼する私設秘書として、女王のためにその人生を捧げたのだった。

愛して止まぬ館での最期
オズボーン・ハウスの枕詞といえば「(女王の)冬の離宮」とされることが多いが、これはアルバート公の死後、ヴィクトリア女王が夏から冬へと同ハウスに滞在する季節をずらしており、亡くなるまでその習慣が続けられたことによるものだ。
夏のオズボーン・ハウスには、アルバート公在りし日の家族との思い出があまりにも凝縮されており、女王はあえてその季節を避けたかったのだろう。
または単に、老いていく女王が、ウィンザーよりも暖かいワイト島で冬を過ごしたかった、という理由に過ぎなかったのかもしれない。いずれにせよクリスマスはウィンザー城で過ごすと決めていた女王だが、それをオズボーン・ハウスへと代え、そのまま年を越し、春を迎えるというパターンを常とした。そうして迎えた1901年。
ヴィクトリア女王はいつものようにオズボーン・ハウスで新年の朝、目を覚ます。その年の日記の書き初めには「新たな年が明けた。弱っているのが良くわかる。悲しいけれど迎えがきたということ」とし、迫り来る最期の時を、本人がある種の確信をもって予感していたのだった。
その日記のわずか数日後、1月22日、家族に看取られながら、ヴィクトリア女王は安らかにアルバート公の元へと旅立った。
オズボーン・ハウスはヴィクトリア女王の死後も、王室の所有とすることが女王の遺志だった。
ところが、王位を継承した長男のエドワード7世は、母の死後わずか1年足らずで、オズボーン・ハウスを国へと譲渡してしまう。
彼は英東部のノーフォークにサンドリンガム・ハウスを有しており、オズボーン・ハウスを「近づきがたい白い象」と形容するなど、無用の長物と見なしていたのだった。

その後オズボーン・ハウスは、海軍兵学校として使われ、また第一次世界大戦時には、傷痍兵の療養所とされるなど、歴史に翻弄されていくことになるが、『クマのプーさん』A・A・ミルンは患者としてここに滞在していた。
建物の賛美者には、ヴィクトリアの孫であるドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がいた。
皮肉なことに、戦後の自分の隠遁所にしたいと考えていたアドルフ・ヒトラーは、第二次世界大戦中にオズボーンを狙った爆撃指示を出さなかった。
1986年からイングリッシュ・ヘリテージの管理下に置かれ、ヴィクトリア女王の在りし日の姿が、半世紀以上の時を隔てて無事、取り戻されることとなった。
オズボーン・ハウスの何十もの部屋には、あまたの煌びやかなコレクションが配され、その優美な様子は、英国の黄金期といわれた19世紀という時代を如実に物語っている。
しかしながら、オズボーン・ハウスは王宮としての豪奢さを知らしめすに留まらない。調度品はもとより、アルバート公の豊かな芸術的センスが生かされた同ハウスからは、その空間を愛し、そこで触れ合った女王一家の人間的なぬくもりが満ちているのを感じられるのだ。
夫婦愛、家族の絆…現代に生きる我々とのそうした共通点を見出させてくれる場だからこそ、オズボーンは今日も多くの人々を魅了してやまないのだろう。

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お熟成洋食器店アインには 一昔もっと前の いい仕事をしていた銘品が まだございます。ウェッジウッド,ロイヤルクラウンダービー,ロイヤルドルトン,ミントン,スポード,ロイヤルアルバート,ロイヤルウースター,エインズレイ等々 英国製の花盛り。
勿論 新作手工芸の原点回帰作品【アンセミオンブルー,バシリカ】等も 厳選して お取り揃えしておりますから ご安心を!!

1756年 ドイツ・プロイセンのフリードリヒ大王は イギリスと軍事同盟(ウェストミンスター条約)を結び ザクセン(マイセン)・ロシア・フランス・オーストリアを敵に回し 7年戦争の火蓋を切りました。
鎧袖一触 又も マイセンを狙って ドレスデンを占領しました。この時 大王は マイセン窯から 職人を引き抜き 挙句は 戦費調達に 瀕死のマイセンを 売り飛ばすのです。

ウェッジウッドは ヨーロッパ中を捲き込んだ 7年戦争真っ只中の1759年 バースレムの地に ジョサイアによって 生み出されました。
ジョサイアは 製陶を生業とする ウェッジウッド家の 第13子として 1730年に誕生しましたが 11歳の少年の頃 天然痘にかかり 右足が不自由になり 1768年には 悪化した右足膝下を 切断しております。
しかし 強い意志の彼は このハンディをものともせず 倦まず弛まず 天分に磨きをかけ 後に「英国陶工の父」と尊称される程の人物になりました。

1769年 古典芸術に造詣の深い パートナー・ベントリーと スタッフォードの地に エトルリア(古代美術の栄えた イタリアの都市名)工場開設。
ジョサイアの 古典芸術に対する憧憬と その復刻に燃える情熱から 命名された。
この年 この地で行われていた 無釉黒色せっ器を改良して ブラックバサルト(玄武岩)を完成(1707年 ベトガー完成の朱泥せっ器に同じ)。
ジャスパーウェアの魁です。リバプール港への 運河を開鑿したことも有名です。
彼の進取の気性は 女王御用達陶工でありながら 反するアメリカ独立戦争・奴隷解放運動への大口基金寄贈者であった事からも 見て取れます。
1795年 王立協会員・初代ジョサイアは 栄光と賞賛の中 惜しまれながら この世を去りました。彼の天分は 息子ジョサイアII世に受け継がれ 脈々と生き続けました。
エトルリア工場は 1950年 現在のバーラストン工場(ストーク・オン・トレント)に 180年の長き 伝統を引き継ぐまで 繁栄を続けました。

ポートランドの壷
古代ローマ(紀元前27年~紀元14年頃)作のカメオガラス。
1582年 古代ローマ皇帝の墓所で 発掘。めぐりめぐって英国国宝となった この壷を 5年の歳月をかけて 1790年 ジャスパーウェアで ジョサイアが 完全復刻に成功。
彼の名声は 弥が上にもまし 彼の誇りの象徴となつた ポートランドの壷が 末永く ブランドロゴに採用されております。

ボーンチャイナ
英国では 磁土(カオリン)の産出がなく 硬質磁器を作るのに 大陸から輸入して いくつかの窯で 細々と試みられていました。
一方で カオリンに代わるものを求めて 試行錯誤の末 1749年 トーマス・フレイが 牛骨を焼いた骨灰にたどり着きました。
1795年頃 この軟質磁器の 工業製品化に成功した1人が ジョサイア・スポード二世でした。
さらに1819年  現ザロップで フェルスパー(長石)が発見され 多くの窯で フェルスパー・ポースレーンの開発競争の中 この時代を リードしたのが 又 逸早く工業製品化に成功した ジョサイア・スポード二世でした。英国ボーンチャイナ確立

クィーンズウェアに続く このジャスパーウェアの 大ブレークが 先見の明あるはずの ジョサイアの目を曇らしたのか 後に隆盛を見る ボーンチャイナの開発に 余り関心なく(1780年 ブリストル硬質磁器窯の 買収提案を拒絶)結局ジョサイア二世による 1812年にと 大幅に遅れることに なりました。
しかしこれとても 先発するスポード社などに 及ばず 1828年には 取りやめました。
今 ウェッジウッドの 中核をなすボーンチャイナへの 再チャレンジは 1878年の遅きになりました。
やがて 研究熱心なウェッジウッドでは ワイルドストロベリー(初代 ジョサイア・ウェッジウッドが残した 8冊 約10000点の パターンブック 初版1769年頃 再版1810年 から 1806年に発表された ワイルドストロベリー。現在のパターンは 1965年発売)を 始 多くのヒット作の 中核的素材となる 美しいファインボーンチャイナを 完成させました。
余談になりますが ウェッジウッド家の 科学研究的優秀さは 中世最高の科学者「進化論」のダーウィンを 血脈としたこと(ジョサイアの娘スザンナの子が チャールズ・ダーウィン すなわちジョサイアの孫になります)でも有名で 世に喧伝されました。











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